Ⅰ はじめに感動ありきA(4)

Pピリ将FINAL

 

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「3姉妹ピリ駒ちゃん」(制作:びわのたねさん)

 

 

 

Ⅰ はじめに感動ありきA(4)

 「感動」と「繰り返し」。

 この1番と2番を考えるときに欠かしてはならない視点。それは両者の「つなぎ」です。

 「まず」と「次に」という2つの接続詞を見つけたとき、たとえば受験現代文では両者のつながりをどう洞察するかが求められます。「2つの段落(要素)は、何を媒介にし、どのようにつながっているのか。」このようなことを即座に洞察していくことが、論理的な読みにつながるというわけです。

 それでは、「感動」と「繰り返し」という、あたかも「水と油」のようにも見えなくない両者をなかだちするものは何で、どのように結びつけていけばよいのかをご一緒に考えていきましょう。

 よくある議論に、「『繰り返し』は飽きる」というテーゼがあります。

 正直、この手の質問は耳にたこができるほど、「繰り返し」聞かされてきました。そして、この種の「繰り返し」にかぎっていうと、不快以外の何ものでもなく、飽き飽きします。くだらないから。

 そもそも、「飽きる『繰り返し』」ということ自体が、私には理解できません。共感はできます。たとえば、工場のラインでの単調な作業などは、退屈なんだろうなと同情します。先述の質問にしても、その類いです。

 けれども、その一方で「飽きない『繰り返し』」を一途に探究してきた私からすると、論理的に了解することができません。

 なぜなら、第1に「飽きる『繰り返し』」は、飽きている時点で降りればよいだけの話だから。「工夫してもつまらないことは、やらない。」この子どもがよく知っているルールは、大人であっても自らの大切なルールにしたほうがよいと思います。そうしないと、心が病み、毎日の生活が楽しくなくなり、眼前がすべて灰色一色に染まり、人生まで無味乾燥なものになってしまうから。

 第2の理由は、少々手厳しくなるのですが、「もっと工夫をしろよ」というもの。なるほど、繰り返しがつまらないのは、真理。しかし、それをそのままにしておくのは、知的好奇心の欠如というよりほかありません。それを臆面もなく公言できてしまうはしたなさが、私には理解できない。

 たとえば、音楽を例にしましょう。音楽は基本的に「反復と差異」によって成立しています。繰り返しであるにもかかわらず、いかに聴衆を飽きさせないか。私はゲームは将棋以外、プレイしない人間ですが、ゲーム音楽は好きです。なぜなら、反復が心地よいから。非常によく工夫されていると、いつも感心させられます。

 ゲーム音楽にかぎらず、作曲家は繰り返しというもののつまらなさと快感をよく知っているなと思わずにはいられません。このような音楽のすばらしさを知っている人間からすれば、「繰り返し=退屈」と決めつけて、そこで思考停止している人々は、単に怠慢だと叱りつけたくなるのです。

 そもそも感動が本物ならば、繰り返しは苦痛でないはず。その上、工夫が加われば、鬼に金棒。私はどうすれば飽きが来ないか、工夫することが好きですし、そこに一番のやり甲斐を感じます。だから、さまざまな方法を編み出し、成果につなげてきました。だから、それをすることなしに、ただ「つまらない」を連呼するだけの人間には、実は「人間」ですらないのではないか。そのような批判をさし向けたい誘惑に駆られます。

 「感動」・「繰り返し」・「工夫」。この三点セットは、将棋にかぎらず、あらゆるものの上達に必備の基本ツールだと、このブログでは考えています。