おまけ 自分に合った方法? は?

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「3姉妹ピリ駒ちゃん」(制作:びわのたねさん)

 

 

おまけ 自分に合った方法? は?

 

 将棋が強くなる方法は、たくさんあります。

 ですから、「自分に合った方法を探ることが大事だ」と、よく言われますね。

 それはもちろん、正論ですが、しかし、それは同時に、耳ざわりがよいだけの、ていのよい逃げ口上という気がしないでもありません。

 だって、結局、何も言っていないに等しいじゃないですか。そう、いわゆる「自己責任論」と同じで、コーチは何ひとつ責任を負っていないわけですよね。

 もちろん、コーチでなければ、こういう無難な言い方になるのでしょう。それは理解します。しかし、私はコーチなので、こういう無責任な言い方は絶対に使いません。

 あなたに合うかどうかは、あなたじゃないから、知ったこっちゃない。けれども、「こういう方法があるので、あなたに合うかどうか、試してみませんか?」 こういうふうに提案してみて、何が悪いのでしょうか? その後にはじめて、「合う」とか「合わない」とかいう議論が出てくるはずのものです。

 私がおすすめするのは、大局観を別にすれば、終盤力の養成。序盤や中盤は後回しにして、まずは終盤力を徹底的に磨きましょう。

 よくある展開ですが、序中盤で劣勢になって、相手が油断しまくっているところで、終盤力だけ異常に強いのを生かして逆転勝ちするということが割とあるものです。だから、将棋は結局のところ、終盤力だと思うのです。

 それでは、どのようにして終盤力を養成するか? 私は昔から言い続けていますが、終盤力=詰将棋力ではない。

 いや、基礎的な詰将棋は、必修です。そこは、他の方の主張と何ら変わりません。いわゆるハンドブックを繰り返し解くということは前提です。最低でも20回は周回し、フラッシュで解けるようにしてください。できれば、9手や11手ぐらいまでは解けるようにしておいてほうがよい。なぜなら、多くの人は、7手詰めぐらいで、ギブアップしているから。その上で、1手必至にも同様に取り組む。

 しかるのちに、囲い崩し、詰めろ逃れの詰めろなど、終盤の総合力=考え方を何らかの参考書でみっちり学んだら、後は実戦で磨くのが最良です。

 ただし、漫然と指していても、強くはなりません。私のとっておきの終盤強化術は、「あえて詰まさない縛り」です。

 いわゆる詰将棋は、最短手数で即詰みに討ち取ることを推奨します。ところが、私の「あえて詰まさない縛り」は、その真逆を行く。長手数をいとわず、詰めろの状態をできるだけ長くキープしたまま、終局へ導くというものです。

 ねらいは、2つ。1つは、相手に精神的なダメージを与えるという、いわゆる大山流。しかし、もう1つとして、終盤力を鍛えるというものがあります。当たり前ですが、詰ますよりも、詰まさないほうが読みは複雑になります。読む量が数倍になります。しかも、手数を長くしようとすると、その分、難しくなる。

 常にそのような状況に浸しておくことによって、長い手数を読むこと、複雑な局面を読むことが習慣化してくるわけです。

 終盤の基礎が必要だといったのは、こういう境地を目指すからです。

 1つだけ、私の実戦からわかりやすい具体例を示しましょう。

 下の図は、角換わりの俗にいう▲4五桂ポンにより、すでに必勝の局面です。圧倒的な駒得、彼我の玉形差からも、それは明らかでしょう。

 

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図 △5四歩まで

 

 ここでは即詰みがありますので、読者の棋力はそれぞれでしょうが、まずはそれを読んでみてください。

 答えはたくさんあるので、最短の例を示すと、▲4五桂△4四玉▲5三角△5五玉▲5六金の5手詰めです。下に逃げるのは、▲4五桂△4二玉▲5三金で早詰み。

 ▲5三角のところで、あえて▲3三角と打っても、詰ますことができます。いずれにせよ、▲4五桂と打てば、それで終わり。

 ところが、それでは修行になりません。

 そこで、あえて複雑化していきます。実戦では、あえて▲5三銀と打ちました。「玉は包むように寄せよ」という格言に忠実な次善手です。

 詰将棋が苦手な人、めちゃくちゃ終盤が強くなりたい人は、このように「あえて詰まさない縛り」を自らに課すという方法があるのです。曲線的な将棋にも強くなれます。どうすれば詰むかだけでなく、どうすれば詰まないかも同時に読む訓練になるからです。

 そもそもはCPU相手の5五将棋駒落ちで全駒するというトレーニングを自らに課した経験から、一般的な将棋常識に反するこうした方法を編み出しました。皮肉なことに、反ー詰将棋を標榜していたのに、詰将棋の不成、打ち歩詰め回避が得意になったという副産物まで手にすることができました。

 さて、図に戻りますが、▲5三銀は、はさみのように、後手玉の4二と4四の退路を塞いでいることがわかると思います。竜の利きもあるので、これで玉のすべての逃走ルートを遮断したということで、良い手です。こういう手を、良い手というのです。

 詰将棋の妙手は、その場かぎりの使い捨ての手ですが、こういう手は普遍的な手で、どのような場面でもすぐに役に立つし、いくらでも応用がきく手です。また、どのような棋力であっても使えるという意味では、教育的でもあります。

 ▲5三銀の後は、△2二歩と打って竜のタテの利きを消してきましたが、今度は▲3六桂と打ちました。やはり同じ思想に基づく手で、後手玉の2四と4四への逃走ルートをシャットアウトした手です。

 △3五角と2四を守るとともに5三の銀を外しに来る手に対しては、角には角で、▲4二角と打ち、王手で5三の銀に紐をつけつつ、2四の地点を強化しました。

 安い駒から使っていく。数を足していく。どちらも、基本に忠実ですね。

 △2三玉と逃げる一手ですが、▲2八香と打ちます。「下段の香に力あり」という格言の通りであると同時に、大駒や香車で遠くから王手をする手は、アマチュアの早指しにおいて、相手の時間を削るという効果もあるため、おすすめです。

 歩合いは二歩になるので、△1四玉と逃げましたが、▲2五金と打ちます。△1三玉なら▲1四歩が打ち歩詰めになるわけですが、そのようなところもいちおう読みに入れて楽しんでいます。詰将棋創作のような楽しみ方ですね。

 △2三玉でしたが、そこで▲3五金と寄って、相手の方はようやく投了となりました。空き王手で、角を素抜いて詰み、というわけです。

 以下、指し継ぐなら、無駄合いをしないということが前提ですが、△1三玉か△1四玉。最短の返しなら、▲2四角成で、完全に詰み。

 さすがに毎回ここまでやると、友達を失ってしまいますし、性格も歪んでしまいますから、ほどほどにしたいものですが、読みの訓練にはなります。

 相手の側に立つと、このような必敗の局面で、最後まで指すこと自体、潔いとは言えないと考えます。そもそも図の局面あたりで投了して、明るく「もう一丁!」というのが正しい姿勢だと私は思っています。そうでないと、相手に苦手意識を持つだけでなく、時間ももったいないですし、自身のメンタルもやられてしまうからです。粘りは大事なことですが、意味のない粘りは無駄合いと同じで、峻別する必要があるでしょう。

 ともあれ、あえて勝負を長引かせることが訓練になるという「シン・長手数の美学」(?)も世の中にはあり、実践している人もいるのだ、という情報提供です。

 そもそも藤井聡太先生やAIのような詰将棋の達人と、詰将棋対決をするのは愚の骨頂ですから、そうでないフィールドで寝技に持ち込む術を鍛えたほうがアマチュア的には現実的なのです。

 以上、あくまでも「参考」の1つまでに供しました。

 

Ⅳ 形勢判断を見直そう(17)

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「3姉妹ピリ駒ちゃん」(制作:びわのたねさん)

 

 

Ⅳ 形勢判断を見直そう(17)

 ソクラテスに「線分の比喩」というものがあります。

 あらあら、ずいぶん高尚な議論だなあ、と静かに閉じようと思われた方、しばしお待ちくだされ。

 難しい話をしようと思っているのではなく、アイデアをちょっとだけ借用しようとしているだけです。

 というわけで、極限早わかりで説明してしまうと、太陽が支配する世界と、そうでない世界とがあるというのです。

 太陽が支配する世界は、目に見える世界。「可視界」と訳されているから難しく聞こえるだけで、おてんとうさまが照っていたら見える世界という意味ですね。

 そうすると、そうでない世界は、夜の世界、闇の世界ということになりそうですが、これを「可知界」という。目に見える世界と目に見えない世界があって、後者を「善」と体系づけるわけです。善は目に見えるかというと、そうではありませんね。目に見えるものだけで判断してはいけないよ。

 世界一わかりやすくソクラテスイデアを解説すると、こんな感じになるでしょうかね。

 いや、今の目的はソクラテスの理解ではなく、大局観のお話でした。ロジカルに分析できる読み、PNと、大局観に基づく洞察、VNについての考察を類比するために、ソクラテスを持ち出してみたというまでのこと。

 やっぱりわかりにくいや、というのなら、ここで閉じてくださっても結構ですが、よろしければ、もう少しだけ、お付き合いくださいませ。

 どうして「線分の比喩」というかというと、線分の両端をAとBとすると、その間にCという点を打ち、線分を分割する。

 ACが太陽の世界で、CBが洞窟の世界というわけです。で、さらにそれぞれの間にDとEという点を打ち、DCとAD、EBとCEに分割する。

 DCはピスティスというのですが、物自体。ADはエイカシアーといって、似せたもの、似姿になります。たとえば、将棋の駒に光を当てると、影ができますよね。駒自体がDCで、その影がADです。

 他方、EBはノエシスまたはエピステーメーといい、議論の対象となるものなどを指し、CEはディアノイアといって、計算して算出したり補助線を引いて理解したりすることを指します。

 ギリシア語の難しい用語は、今回はどうでもよろしい。平たくいうと、太陽の世界にも夜の世界にもそれぞれ2種類あって、それ自体とその影があるというわけです。太陽の世界に影があるのは幼稚園児でも知っているでしょうが、闇の世界に影があるというところがオシャレなところ。

 見ればわかる太陽の世界でも、よく見ないと、物自体なのか、その写像なのかが判然としない。そして、闇の世界でも、同様だということを示唆しています。

 大局観とは比喩だと喝破した私は、ここでいよいよ将棋に置き換えてみたいわけですが、将棋には見てわかるレベルと、そうでないレベルがある。

 まとめると、こうなります。

 

AC 昼(現状把握と読みの世界)

 DC 現局面

 AD 前後の手順

CB 闇(大局観と第六感の世界)

 EB 投了図

 CE 感想戦

 

 現局面の分析をACとしましょう。DCは写真に撮ることができますし、図面に起こすことができます。ADはそこに至るまでの過程と今後予想される変化手順。これは符号で表すことができます。

 つまり、ACは現局面を中心とした領域ということになります。

 対して、CBは将棋の神様のみぞ知る領域です。

 投了図がどうなるか、現時点で対局者は知る由もない。この最終形をEBとしましょう。

 このEBを何とか少しでも理解しようと努めることがCEになるというのが私の解釈です。つまり、煎じ詰めると、EBが投了図、CEは感想戦です。

 ここでも図面や符号は無益ではないでしょうが、万能ではありません。つまり、結果論として捉えるかぎりにおいては有効だとしても、将棋を指している最中においては、大局観や直観というよりほかにないものです。

 私のブログがしばしば符号なしで記述される理由は、主としてこのCBを問題にしているからです。

 目に見える可視界から、目に見えない可知界へとトランスすること。そのための最良の方法は、感想戦以外にないという結論にはっきりと達します。

 ただし、その感想戦の質を高めるためにどうするかといえば、ACとCBを区別すると同時に、両者をともに追いかけること。言い換えれば、具体的な手順ばかりに拘泥するのではなく、手順に還元できない部分、大局観を磨こうとする姿勢に尽きると思います。

 わからない局面、難しい局面で、どう指すか。それを感想戦で掴めるかどうか。このようににテーマをはっきりさせておけば、あなたの将棋は飛躍的に上達していくことでしょう。

 質の高い感想戦は、優れた大局観を身につけるために不可避な上達法です。

Ⅳ 形勢判断を見直そう(16)

Pピリ将FINAL

 

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「3姉妹ピリ駒ちゃん」(制作:びわのたねさん)

 

 

Ⅳ 形勢判断を見直そう(16)

 VN(形勢判断)とPN(読み)は、指向性が異なっています。

 VNはシンプル化を目指すのに対し、PNは緻密化を目指しています。

 そうであるならば、VNを鍛えるためにさしあたり必要なのは、直観の鋭さと単純への着目ではないでしょうか?

 直観は感覚なので、早指しや高速棋譜並べで鍛えます。しかし、単純への着目は思想なので、哲学者のように頭で論理的に考えに考え抜きます。

 その結果、将棋で単純な要素というのは、原則として、次のような事柄であるという結論に達しました。

 

●駒の種類は8種類しか存在しない。

●駒の枚数は各20枚しか存在しない。

●盤上の駒と駒台の駒では価値が違う。

●普通の駒と成駒では価値が違う。

●流れは序盤・中盤・終盤しか存在しない。

●エリアは自陣・敵陣・その中間しか存在しない。

●駒の損得・駒の効率・手番は形勢を左右する。

●強い相手でも心理に問題があれば勝機がある。

●強い相手でも時間がなければ間違える。

●強い相手でも将棋は難しいから間違える。

●自分が間違えず、相手が間違えれば勝つ。

●相手玉を先に詰ましたら勝つ。

●自玉が詰まされなければ負けない。

●最終的には勝ちと負けと引き分けしか存在しない。

 

 まだまだありますが、このように分岐の少ない事柄を一つひとつ徹底的にチェックしていくと、大局観が鍛えられます。大局観とは、つまるところ、理論だと考えています。

 そして、理論と言うからには例外があるわけですが、そのような例外を極力減らすことができるかどうか。もしくは、例外を素早く発見できるかどうかが重要です。

 いちばん手っ取り早い例外は、駒の損得。あえて損をして得する戦術。「終盤は駒の損得より速度」という格言があって、誰もがこれを当たり前だと信じて信奉しているようですが、私は懐疑的。とはいうものの、駒の損得を度外視する攻めというものは、損して得する代表的な戦術と言えるということは肯います。

 ちなみに私は「駒得は裏切らない」という格言のほうを信奉しており、駒の損得・駒の効率・手番の3要素のすべてを取りに行くという思想に切り替えてから強くなりました。

 かつては、駒損をしてでも駒の効率と手番を重視するスピード将棋、攻め将棋でしたが、今は駒得して駒の効率も高めて手番まで握ってやろうという欲張り将棋、受けつぶし将棋になっています。相手がプロでないかぎり、根こそぎ流、全駒流でいこうと決めたのです。

 この方法自体は、私の将棋部の先輩Y氏直伝のものなのですが、Y氏の方法の問題点は、スマートでないという点。言い換えれば、泥沼流すぎて、エレガントさに欠けるという点でした。そこを私は大局観をキーワードにして、アレンジ、再生を果たしました。

 最も重要な改善点を2つあげると、1つは軸をつくること。3要素のどれかを主にして、残りは従にする。従にするとはいっても、捨てるわけではなく、残す。もう1つは、あえて隙をつくること。本当は3要素のすべてを取りに行きたいのだけれども、いや、そうであるからこそ、あえて隙をつくって誘い込むということです。

 思うに、将棋はペテンとの相性がすこぶるよい。落とし穴を掘ったり、罠を仕掛けたり。そういうことに喜びを感じなければ、絶対に強くなれないと断言していい。

 言い換えれば、性格が悪くなければならないということなのですが、ここで大事なのが、性格の悪さを主、性格の良さを従にするということで、将棋が終わってしまえば、この主と従を反転させることを忘れてはなりません。

Ⅳ 形勢判断を見直そう(15)

Pピリ将FINAL

 

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「3姉妹ピリ駒ちゃん」(制作:びわのたねさん)

 

 

Ⅳ 形勢判断を見直そう(15)

 前回はVNとPNについて、私見を述べました。

 すなわち、大局観と読みという2つの極があって、その順序としては、まずVN、次にPNの順で並べ、最終的には両者をローリング、螺旋状に回転させながら進化=深化していけばよいという見通しを示したわけです。

 ただし、ここで両者を媒介するものについての意見のことも、少しだけ補足しておきます。それは、手筋ということになります。

 棋譜並べをするときにも、詰将棋を解くときにも、定跡を研究するときにも、そして実戦においても、1つの任意の駒を研究材料にしておくことをおすすめします。

 どういうことかというと、級位者であれば、飛や角にフォーカスし、それぞれの棋譜、観戦、詰将棋、必至、定跡、実戦等において、大駒がどのように活躍しているのか、していないのかに注目ポイントを置くということです。同時に、手筋の本で、飛や角の手筋をマスターするということです。

 大駒でなく、歩でも、他の駒でもよいので、「テーマとなる駒を決める」ということをおすすめします。推しの駒を定める。

 そうすることで、VNとPNという区別に、一本の串が刺されることになります。

 将棋には全部で8種類の駒しかありません。成駒を入れると少し事情は変わってくるでしょうが、この8種を任意の順番で構わないので、コンプリートすること。

 そうすることにより、すべての駒への目配りが利くようになってきます。最初はすべてに目配りするから大変ですが、慣れてくると次第にどのようなとき、どの駒に目をつければよいのか、どの駒は軽視してよいのかという力の加減、つまり簡易的な形勢判断ができるようになってきます。

 まとめると、手筋を媒介にして、大局観と読みをつなぐということをおすすめしたいということですね。

Ⅳ 形勢判断を見直そう(14)

Pピリ将FINAL

 

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「3姉妹ピリ駒ちゃん」(制作:びわのたねさん)

 

 

Ⅳ 形勢判断を見直そう(14)

 今日、若い人と話す機会がありました。将棋の話ではなく、大学院受験の話。

 難解な論文を読む上で、どのような準備が必要かというテーマで、一緒に考えたのが慣れと知識と読解力の腑分けについてでした。

 軸は2つあって、最初は難しいけれども、多読で読み慣れていくうちに自然と知識が蓄積され、身についてくるというのがx軸。予備知識はなくとも、読解力を上げることにより、論理を追うことができるというのがy軸。

 そして、このx軸とy軸を養うには、それなりの時間が必要で、短期的に身につけようとしても難しいので、早いうちから取り組むことが必要だという認識にたどりつくことができました。

 この話をしている間、私の脳裏には、将棋のこと、このブログのことが常にありました。というのも、これはまさに棋譜並べのことを言っているからです。

 棋譜並べというと、よく上級者向けの学習法だと返ってくるのですが、そうではありません。まず慣れから少しずつ知識を積み上げていくというx軸と、読みや大局観を養っていくy軸というふうに置き換えて考えてみると、酷似しているということに気がつくわけですが、どうして上級者向けと決めつけるのかが私にはいまひとつ解せない。

 そもそも上級者なんていうのは、どんな勉強法を使ってもそれなりに強くなれるはずなので、むしろ中級者に私は棋譜並べを推奨したいと考えています。一局全体の流れ、ストーリーを大づかみにとらえることにより、大局観が養われるからです。

 やみくもに詰め込むことはよくなく、きちんと整理した上で入れていく必要があるという話を前回しました。ただし、その前提として、棋譜並べを位置づけたい。まずは多読である程度、慣れ、親しみ、少しずつ知識を身につけていく。あるいは、一局の流れやストーリーというもののイメージを自分なりに持つようにする。そのうえで、はじめて整理した知識のインプットが始まる。そう考える私は、いわば肩慣らし、準備運動としての棋譜並べを中級のうちから取り入れる必要を解きたいのです。

 実は、強い人がそうでない人を指導する場合に見落としているのは、観戦するという習慣を与えることの重要性です。棋譜並べは観戦の手引きとしても非常に重要なので、百歩ゆずって上達法というものに役に立たないもの立ったとしても、やはり欠かせないものなのではないでしょうか?

 ところで、AIの世界では、バリューネットワーク(VN、大局観)とポリシーネットワーク(PN、読み)という言葉が用いられているようで、それは囲碁の世界においては、いくつかの棋書によってすでに周知のようですが、しかし、将棋界ではまだまだ知られていないですし、また、知られていたとしても、それが必ずしも有効な上達法の開発とは結びついていない現状にあります。

 私の高速棋譜並べにせよ、全体の上達法のデザインにせよ、まずはVNからというのが持説。高速棋譜並べだったら、まずは読みを入れず、解説も読まずに、とにかく並べるだけ並べてしまう。そしてそれを反復して、うすらぼんやり全体像をつかむことに集中する。全体の上達法のデザインの場合なら、まずは棋譜並べでうすらぼんやり全体像をつかむことに集中する。何たら戦法だとか、何とかの手筋とか、そういうことは基本的には後回し。

 しかるのちに、PNを持ってくる。この段階へ来ると、よく整理分類した知識を効率よくインプットしていくということを重視しつつ、未知の局面でも自らの思考で読み進めることができるようになることを志向する。それが全体の上達法のデザインだ。

 また、高速棋譜並べに即して説明しなおすと、すらすらスムーズに淀みなく流れるように並べられるようになったら、解説を読んだり自らうんうんうなって考えたりしてPNを鍛えていくという段階です。

 そもそもこのように俯瞰して見るということ自体がVN、すなわち大局観なのですが、以上をまとめると、まずVN、次にPNという順序を徹底するということに尽きます。

 もちろん、これらがダイナミックにローリングする、動的に渦を巻くように螺旋状に進化(深化)していくというのが究極の理想形なのですが、最初のイメージは「VNからPNへ」という公式にまとめることができるというのが私の結論です。

 昔、オーケストラにいたとき、内輪での初見大会というものがありました。はじめてもらった譜面を初見、すなわち予習なしにいきなり演奏して合奏するという無茶苦茶なイベントです。当然、うまくいくわけはありません。個々が下手くそな上、全体のバランスなんてあったものではないのですから、壊滅的、悲惨で最悪な演奏となります。

 ところが、この初見大会があるからこそ、全体のゴールが見えるわけですね。そう、細部を磨いていって、どうすれば全体へたどりつけるかを考えることができるわけなのです。

 ゴルフのように、何回刻んでいけば、カップにボールを沈めることができるのか。そういうことが見えてきてはじめて、クラブの選び方やスウィングのフォームなどディテールの詰めが始まるわけです。

 もちろん、まったくの初心者や初級者では、そういうことはできません。そもそも楽器自体が弾けないのに、初見大会なんて、無謀です。けれども、ある程度、楽器が弾けて楽譜が読めるというところまで来たら、初見大会に参加するべきでしょう。

 この初見大会を経験するまでの私は、細かいところに固執しがちだったのですけれども、初見大会を経験したからは、一気にパッと視界が開けるようになりました。大局観を手に入れた瞬間でした。その時は、その後の人生で指揮台に乗る機会が何度もやって来るとは夢にも思いませんでしたが、大局観を手に入れるという事件がなければ、そうはならなかったわけなので、このような転回は、将棋においても不可欠だと考えています。

 音楽において楽譜が読めるようになるのと同様、将棋においては棋譜を読めるようにする必要がありますが、棋譜を読めるようにするための手段としても棋譜並べ以上のものを私は知りません。棋譜並べ、万歳。

Ⅳ 形勢判断を見直そう(13)

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「3姉妹ピリ駒ちゃん」(制作:びわのたねさん)

 

 

Ⅳ 形勢判断を見直そう(13)

 以前に「軸」というお話をしました。また、将棋以外のお話もしました。

 そこで、今回は大局観という話題を両者と結びつけてみようと思います。

 将棋の勉強法にも大局観が要るというお話です。いや、将棋だけに限らない。今はまさに受験シーズン真っ只中でもあるわけですけれども、どんな勉強であっても、勉強法には大局観というものが必要です。

 実は昔取った杵柄で、最近、受験生の指導をボランティアでしています。元・予備校講師の実力は衰えません。もちろん、細かいデータなどは現役の先生方には及びませんが、軸の部分ではむしろ現役の先生よりも上だと思っています。

 たとえば、「英単語や古文単語が覚えられない」という悩みは、普遍的な悩みなので、私のようなロートル(退役軍人)であっても十分に戦えます。皆さんなら、どう答えますか?

 私の答えは、こうです。「世の中には、覚えるのが得意な人とそうでない人がいる。そこにはあまり言いたくはないのだけれど、やっぱり才能というものもあるので、他人の才能を羨むことはやめよう。もちろん、努力の問題や工夫の問題であるものを才能の問題に転嫁して言い訳にするのは、ダサいし、本質を見逃すことにもなるので、よくない。けれども、『覚えられない』という自覚が君にあるのであれば、『天才的に覚えられる』という幻想は一刻も早く捨てて、天才の二倍の努力と四倍の工夫で乗り切ることが大事なのではないかしら?」

 ここまで言ってから、相手の反応を見て、続けます。「ところで、天才が速く覚えられたとしても、それをすぐに忘れてしまったり、不確かなものであったりしたら、どうだろう? そう。意味がないよね。私はもうロートルだけれども、英単語も古文単語も同業者や辞書、単語帳以上に精確に覚えている。(いくつか実演してみせた上で)何の準備もなく、こういう知識が淀みなく泉のように出てくるのは、高校時代のインプットの質が高かったから。短期記憶ではなく、長期記憶にしているから、これでご飯が食べられるようになった。長期記憶にすれば、ボケないかぎり、一生この記憶を保持することができる。君は、多少時間がかかったり手こずったりしたとしても、こういう質の高い記憶を目指すべきだ。さあ、そのためには、どうすればいいと思う?」

 少しだけ間を置いて、結論を授けました。「情報を整理した上で語感を駆使して覚える。やみくもに覚えようとすると、脳がパンクする。覚えられたとしても、忘れたり、思い出すのに時間がかかったりする。そうではなく、情報を整理すること。たとえば、目の前にある食べ物を手当たり次第に口へ持って行くのではなく、コース料理のように、前菜、お魚料理、お肉料理、デザートというふうに順序立てて、ストーリーのある形にしてインプットしていく。そのときにかかっているBGMや、照明の色、ワインの香り、窓の外の夜景や壁に掛かっている画、室温、会食の相手の表情や衣装などの周辺情報も併せて記憶する。思い出すときのためのヒントも一緒に覚えるイメージ。そうすれば、ウサギとカメの競争のように、君が最後は天才に勝つという逆転も起こり得ると思うよ。」

 最後の最後に、こういうアドバイスを付け加えました。「記憶術のお話は以上だが、他人から教わった記憶術よりも、自ら編み出した記憶術のほうが有効なので、このお話をヒントにして、自らのやり方をどんどん編み出してみよう。できれば、友達や先生とこの種の話題で意見交換する機会をときどき持つようにすると、君オリジナルの記憶術ができあがるし、勉強や記憶すること自体が今よりもグッと楽しくなると思うよ。」

Ⅳ 形勢判断を見直そう(12)

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「3姉妹ピリ駒ちゃん」(制作:びわのたねさん)

 

 

Ⅳ 形勢判断を見直そう(12)

 形勢判断とは何か?

 その答えを知るには、羽生善治先生にうかがうのが、最もてっとりばやい。

 著書もあり、インターネット上にインタビュー記事もあるので、必ず参照しておいたほうがよいと言っておきましょう。私のブログを読むよりも、数倍の価値があります。

 私が他人の話を聞くときに注意深くなるときがあって、それは比喩を用いるときです。あるカウンセラーから聞いた話ですが、比喩を使える人のメンタルはさほど心配ないんだそうです。比喩はそれだけ高度な能力なんですね。

 歴代の名人は皆様、比喩がお上手ですが、羽生先生も例外ではありません。ライフネット生命のインタビュー記事によると、「大局観」を「ジグソーパズル」と「目的地探し」に喩えていらっしゃることがわかります。これが、とってもわかりやすい。

 詳しくは検索してみてほしいのですけれども、全体をどう捉えるのか、大局観と読みの役割分担、切り替えのタイミングなどが、これらの比喩によって腑に落ちるのです。

 大局観では、難しいところや込み入っているところに深入りする必要はない。しかし、その一方で目的地に辿り着くためには、適当でもいけなくて、最後は細かい読みが必要だから、両立することが大事といったことが、これらの比喩によって即座に伝わってきます。

 大局観を英語にすると、パースペクティブとか、ワイド・パースペクティブとなるようですが、私はその本質は比喩だと思っています。

 比喩というのは、ある体系と別の体系を大きく比較することができなければ、使いこなすことのできないレトリックです。これは何かに似ているということを、部分的に比べるのではなく、部分部分の対応だけでなく、全体体系の対応まで確認することが比喩表現には求められるのです。

 この将棋は何かに似ている。こういうセンサーが働けば、大局観が使えます。そして、その何かを発見できれば、大局観も頼りになります。経験が多いほうが大局観が発達すると言われているのも、そういうことが理由だと私は見ています。

 年齢が高くなっても将棋を楽しめているのは、若い人と違って、古い将棋を参照できているからでしょう。昔の将棋に似ているなとか、違うなという感覚を大局観という形で、利用しているわけです。

 そのように考えていくと、一つの戦法に精通しているだけでなく、さまざまな状況に広く対応できる練習なり訓練を積むことが大局観を養う上では欠かせないという結論になりそうです。

 私はある時期、あらゆる戦法を選り好みせずに棋譜並べするということをしていました。それはあまり意味がなかったと反省していたのですが、さらに時間が経った今、無駄ではなかったと気づくことになりました。過去の将棋と最新の将棋を比べる視点を得ることができたからです。そして、両者を融合して、次々と新しい戦法を編み出すことにも成功したからです。

 アマチュアにはプロとはまた違った大局観が必要で、それを模索すると、即効性はないかもしれませんが、やがて大樹となって恩返ししてくれることでしょう。私にとって、「大局観」とは「温故知新」の類義語です。