Ⅰ はじめに感動ありきA(10)
Pピリ将FINAL
「3姉妹ピリ駒ちゃん」(制作:びわのたねさん)
Ⅰ はじめに感動ありきA(10)
一度、死にかけて、心の真ん中に常に置き続けてきたものがあります。
それは仕事を遊びにし、遊びを仕事にするということ。
大きな挫折をしたことがない人は、仕事は仕事、遊びは遊びと画然と区しているように、私には映ります。区切るだけなら構いませんが、そこに無意識のうちに優劣や上下をつけてしまう傾向があるように見えます。
一度、死にかけた人間には、そのような優劣や上下、プラスとマイナスという考え方がなく、いわば絶対値で物を見つめるところがあります。
いや、死にかけたからだけではなく、家族に重度の障害者がいるということも大きいような気がしないでもありません。
たとえば、頭が悪くとも、元気いっぱいな子がいるとしましょう。私はそれでよいと思うのです。エネルギー量が大きければ、その方向は東西南北、いずれであっても不問に付す。これが私のコーチングにおける最重要な視点です。
「仕事を遊びに、遊びを仕事に。」これは、いわば差別をしないための格言と言えるわけですね。
他の人が一生懸命やっているものについては、力を抜く。他の人が手抜きしているものは一転、がむしゃらに打ち込む。
なるほど、天邪鬼かもしれません。しかし、天邪鬼はバランスを取るための戦略の1つということもできるかもしれませんよ。
将棋は、遊びです。このことは忘れてはいけないことで、たかだかゲームだという自覚を持っていないと、本質を見失うことになるのではないでしょうか。
将棋盤と駒は、ただの木です。私たちアマチュアは、相手に勝ったからといって、お腹を満たせるわけでもなければ、お金をいただけるわけでもありません。
なるほど、プロ棋士なら、そういうこともあるかもしれませんが、しかし、プロ棋士であっても、他人の命を救うことはできませんし、世界を平和にすることもできないはずです。将棋というものは、数多くある遊戯の1つに過ぎません。
コロナ渦では、多くの文化や芸術、娯楽、サービスが「不要不急」なるレッテルによって、差別されました。人間の醜いところが剥き出しになって、出てきた印象です。
ただし、これはある意味、真理を衝いていて、私たちの身の回りにあるものなんて、ほとんどが、大半のものが、実は「不要不急」なのです。
より踏み込んでいえば、私たち人類の生命などというものも、大きな宇宙からしてみれば、「不要不急」なゴミなのではないでしょうか? 森林は伐採するし、温室効果ガスは排出しまくるし、自然にとって害虫以外の何者でもないと思います。
このように考えてくると、生きている意味なんて、どこにもないわけです。私が言いたいことは、そこまで降りて、改めて再浮上することです。
人間の組み立てた論理などというものは、たいていのものがへりくつであり、ごまかしであり、嘘八百であります。だから、そうでない一番低いところまで降りて、そこから浮かび上がるということを、いつもとは言いませんが、ときどきやってみるとよいと思います。
悟った坊主きどりと批判されるかもしれませんが、将棋はいつでも初心者からやりなおすし、将棋にこだわらず、どんなゲームでも全力で取り組み、ゲームとは何かということを考えます。
ただし、私はテレビゲームは好みません。不自然なものは遠ざけるからです。もちろん、将棋のAIは使いますし、インターネットや電子書籍も利用しますが、しかし、できるだけそれらを抑えて、木の盤と駒、木に由来する紙を束ねた本というものに書かれた文字や符号を使って、私は将棋を楽しみます。将棋をしていないときも、庭や森林の木の声を聞くことを好みます。
人工的なものに取り囲まれていると、どんどん感動する力が失われていくような気がしています。私も老人に近づいてきました。後半生、誰が何と言おうとも、どんどん自然回帰をしていく予感があります。