Ⅰ はじめに感動ありきA(5)

Pピリ将FINAL

 

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「3姉妹ピリ駒ちゃん」(制作:びわのたねさん)

 

 

 

Ⅰ はじめに感動ありきA(5)

 

 「感動」という言葉を「楽しい」に置き換えてみます。

 たとえば「音楽」は「楽しい」ものの代表格。しかし、その音楽を楽しんでいない人が案外、多くいます。ショパンコンクールで4位入賞を果たした小林愛実さんも一時はそうで、ピアノをやめようと思ったと告白しています。

 どうして、このようなことが起こるのか。こういうことは真に苦しいトンネルをくぐったことのない人には理解も共感もできないと思います。

 これは、端的に説明すれば、「大きな感動(楽しさ)を得るためには、それだけ多くの代償を払わなければならない」という法則が影響しています。単に「楽しい」ではなく、(楽しくないものも含めて)「楽しむ」という、より高次のメンタルが超一流には求められるゆえんです。

 音楽にせよ将棋にせよ、レッスンをしていると、「楽しい」ということを頻繁に確認しないと気が済まない人がいます。本当に楽しんでいる人は、ただにこにこしているもので、わざわざ、そういう確認はしない。私はそこに病的なものを察知します。

 最初こそ、楽しいことを確認する必要はある。途中で挫折しそうなときにも、再確認する必要はあるでしょう。しかし、いつもこのような確認をしないではいられないというのであれば、異常です。

 心というものは、無意識によって成り立っています。無意識の奥底(エス)は意識することはできないし、表面にあがってくる言葉などは、無意識とは正反対のことを言っていることも珍しくありません。「楽しい」を合唱する人は、実は大きな闇(病み)を抱えていて、無意識では「楽しくない」と思っていることがしばしばです。実際、新学期に「楽しい」「楽しい」と連呼していた子が、秋頃になると表情がなくなり不登校になるというケースがよくあります。

 ここで、1つはっきりとさせておきたいことがあります。単なる「楽しい」を追求したいのであれば、なるべく簡単に手に入る快楽を追求しなさい、と。性欲でも、食欲でも、名誉欲でも、手っ取り早く満たせるもので満たす。それで終わりです。

 音楽でいえば、聴衆に回ること。あるいは、カラオケ程度の趣味にとどめることです。間違っても、一流の演奏者になろうとしてはいけませんし、コンクール出場なんて、もってのほか。

 将棋についても同じことがいえて、単に「楽しい」という状態が目標なのか、それとも最終的に「楽しむ」ことが目的なのかを峻別したほうがいい。

 もし、前者なら、難しいことは考えず、このブログや棋書などは見ないで、ごくたまに指したり見たりするくらいにとどめることをおすすめします。そうすれば、将棋は楽しいです。一生懸命に打ち込めば、苦しくなるだけですから。

 しかし、後者であるならば、長く苦しいトンネルを覚悟する必要があります。いわば「楽しい」から始まり、「苦しい」を通過して、「楽しむ」境地へ抜けるということです。音楽でいえば、ベートーベンの交響曲のようなイメージ。

 精神分析で有名なジャック・ラカンによれば、「楽しい」には「快楽」と「享楽」の2種類あると言います。最近の新しい将棋ファン層は、将棋観戦のいわば快楽部分を発見したのだと思います。しかし、このブログは一貫して享楽部分を掘り下げてきたので、矛盾が生じるのだと思います。

 ただし、ここで強調しておきたいことは、どんなに苦しくっても、以上の全体的なアウトラインを押さえておけば、常に快楽に戻ることはできるし、最終的には享楽に達することができる、ということです。

 要するに、私は将棋道とメンタルの関係について、お話してきたわけですが、このことはもちろん、一局の将棋にも当てはまることです。相手がよほど弱ければ、一局を通して笑いが止まらないという状況にもなるでしょうが、「それで本当に楽しいの?」と問われれば疑問です。むしろ、実力伯仲で、互いが最善を尽くし拮抗した状況が長く続くほうが「苦しい」けれども、「楽しい」と思うのではないでしょうか? 

 水戸黄門ではないけれども、「人生楽ありゃ苦もあるさ」。

 そういえば、最新の『将棋年鑑』のアンケートに、才能と努力の比率を問う問題がありました。天才である棋士の皆さんが、努力に軍配を挙げているのが印象的でした。

 将棋というものの本質がわかりやすく開示されていると思いました。