Ⅲ 盤外こそわが戦場B 非実戦(10)

Pピリ将FINAL

 

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「3姉妹ピリ駒ちゃん」(制作:びわのたねさん)

 

 

Ⅲ 盤外こそわが戦場B 非実戦(10)

 準備・実行・後始末の「後始末」。

 結局、どれだけ丁寧に、この「後始末」ができるかどうか。そこが鍵だと思います。そう、その人、その対局、その方法の値打ちが決まるのは、後始末しだい、ということ。

 対局が終わった後、私は勝っても負けても、投了図をぼんやり眺めるようにしています。まだ一年は経っていません。ここ最近の習慣。

 ネット将棋の場合、投了図のままにして眺めていると、さらに挑戦してくる方がいるのですが、私は投了図の奥底に潜っている深海魚のようなもの。申し訳ないのですけれども、次々と対戦をすることができないのです。

 どのくらい、眺めているのか? 時間、ではない。少なくとも、世間的な意味での時間という概念は、そこには存在していません。世間的な時間にすれば、だいたい1時間ぐらいであろうか。しかし、それが数日間、続くこともあるので、やはり無時間というよりほかないようです。

 場合によっては、部屋を変えて、コーヒーを持って来たり、お酒を持ち込んだりしています。書物を読みながら、映画を観ながら、音楽を聴きながら、座右に投了図を置くこともありますし、本当に一心不乱に、実戦以上に真剣に盤に対座することもあります。

 小さな問いは数あれど、大きな問いは、たったの1つだけ。「どうして、このような投了図が誕生したのか?」

 宇宙の神秘のごとくに考えます。一局の感想ではもはやなく、将棋というゲームの真髄に思いを致す。

 学童保育に最後まで取り残された子どものごとく、投了図を無心に眺めています。投了図をあれこれ、脳内で動かして遊ぶこともあれば、永遠に不動化され硬直化してしまった駒々の化石をそのまま、ありのまま、受け止めていることもあります。もちろん、一般的な意味での振り返り、感想戦もします。

 負けた時の悔しさ、勝ったときの喜び。そのような感情は上澄みにすぎず、デクレッシェンドし、減衰していきます。その代わりに、対位法的に現前してくるのが、将棋の真理。この真理と向き合っていると、法悦を覚えます。

 実は、読者限定公開のブログというのがあって、1~2名しか読者がいないのですが、ここでは延々と『投了図の研究』という連載をしています。今はこちらのブログに集中しているので、更新が途絶えがちですが、いずれはメインに戻すつもりだし、私の頭の中では、さまざまな投了図が寄せては返す波のように、更新を待ってくれています。

 そのようなわけで、ここでその真髄を安くコンパクトに表現できる代物ではないのですけれども、しかし、弱くてお話にならなかった私が、某ネット将棋での七段到達の原動力になった。その決定的な「インスピレーション」を得た場こそが、まさにこの、全身の力を抜いてただただ投了図を眺め続ける、という「時」だったという事実だけは、ぜひとも書き残しておこうと思います。

 この投了図を眺める習慣は、棋譜並べでも同様。倦まず飽かず、眺めています。高速棋譜並べが急ならば、緩。鋭ならば、鈍。敏ならば、慢。浮ならば、沈。躁ならば、鬱。俗ならば、聖。汚ならば、浄。動ならば、静。観ならば、止。生ならば、死。……

 実戦は半身でしかなく、それに合う半身を探し求めなければならない。天秤があるとしたら、実戦には半分の重みしかないということです。残りの半分のおもりを探してくる必要がある。

 ともあれ、「後始末」というのは、最も偉大な「聖地」なのだという認識を今、はっきりと私は抱いています。宗教的だと難ずる読者もあるかもしれないけれど、そう誤解されても構わないと私は澄ましています。なぜなら、この真実は、将棋にこそ当てはまることであると同時に、将棋にだけに当てはまることではないと固く、固く信ずるから。

 おそらく「感想戦」というのでは生ぬるい。そのような余剰が、このような新しい習慣の中にきっと眠っているのでしょう。示唆、だけ、させていただきます。