Ⅰ はじめに感動ありきA(6)

Pピリ将FINAL

 

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「3姉妹ピリ駒ちゃん」(制作:びわのたねさん)

 

 

 

Ⅰ はじめに感動ありきA(6)

 

 一口に「感動」といっても、「質」の問題があります。

 いや、感動にかぎらず、何ごとにおいても、「質と量の問題」には常に気を配ってほしいと願います。

 量を求めると質が、質を求めると量が犠牲になることが多いものですが、二者択一を選ぶこと自体が誤りになる。そのようなことは、しばしば起こるものです。質と量は、相補的なものですから、両立させるにかぎります。

 で、「感動」の「質」の話ですが、最近、「感動」という言葉が陳腐化しているということを指摘しておく必要があります。

 私がここで「感動」といっても、ピンと来ない読者がほとんどではないか。そう危惧しています。あまりにも気軽に皆さんが「感動」という言葉を消費しすぎていて、こちらの言いたいことが伝わらないという状況があるからです。

 このような場合は、言い換えが意味を持ちます。「感動」という言葉を別の言葉に言い換えてみましょう。皆さんは、どのような言葉を連想しますか?

 「感動」という言葉は、「感」と「動」に分けることができます。つまり、「感じて、心を動かす」ということを意味しているわけですね。

 逆にいうと、「不感症になっていて、心を動かすことがない」というコンディションでは好ましくないということです。

 ところが、恐ろしいことに、現代という時代は、このようなコンディションの方ばかりなのです。これは本当に恐ろしいことです。

 前回、「楽しい」「楽しい」の大合唱を批判しておきました。同じことが「感動」「感動」の大合唱にも当てはまります。あまりにも気軽に「感動」という言葉を使いすぎていますが、その実、感動という言葉の意味は薄れています。だから、皆さん、感動に飢えている。けれども、このサイクルの中に入っていると、いつまで経っても、真に感動することはできません。

 なぜか。「感動」というものは、皆さんの思っているようなものではないからです。長年、生き別れになっていた親子が対面する瞬間。おそらく、多くの方はこのようなシーンに「感動」という言葉を当てはめるのではないでしょうか? しかし、もしそうだとしたら、そのような感動は、少なくとも私に訪れることはないでしょう。なぜなら、私には生き別れの家族など、いないから。このような質の感動を求めていると、結局、他人事になってしまいます。

 それでは、このブログでは、どのような「感動」を求めているのか。もっとサイズを小さくしてください。もっと、もっと、もっと小さく。そう、言葉でいえば、「微」です。

 毎日毎時、すべての瞬間に「感動」はあります。多くの人々は素通りしていますが、ある人々が確実に出会っている日々の感動、微細、微小、微少なものの変化にいちいち心動かされる繊細きわまりない心のあり方こそが、ここで求めている「感動」の真義です。

 そして、「はじめに感動ありき」の「最初の感動」というものは、こうした日々の小さな心のヴァイブレーションの源泉となるものを指しています。言い換えれば、今までの不感症で、無表情だった心の硬直状態を溶かしてくれる一点のことを表しています。

 俳優には必ずこの種の感動が訪れます。ある俳優の演技を目にしたとき、それが瞼に焼きつけられます。今までの私の演技は何だったのか、と。

 こうなると、その後の演技は一変します。演出家は、そのドウサの一つひとつに注意や注文を与える必要がなくなります。

 もし強くなりたいのなら、安物の感動には手を出さないでください。本物の感動を手に入れてください。

 ただし、ご安心あれ。本物の感動というものは、いつでも、どこにでも転がっていますから。あなたさえ、その気になるのであれば、ほら、ここにも、あそこにも。

 いや、それはすでにあなたの内部に宿しているものなのかもしれません。