Ⅲ 盤外こそわが戦場A(7)

Pピリ将FINAL

 

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「3姉妹ピリ駒ちゃん」(制作:びわのたねさん)

 

 

Ⅲ 盤外こそわが戦場A(7)

 プロフェッショナルと、アマチュアと。

 この「二者択一」が無効である理由については、以前にも少し触れたのですが、改めて「盤外こそわが戦場」という文脈でも取り上げてみようと思います。

 ある分野のプロであることは、別の分野ではアマである。この当たり前のことを皆、忘れています。

 将棋のプロ棋士にしてもしかり、他の分野のプロにしてもしかり。

 だから、別に将棋のプロ棋士だけを特定的に批判したいわけでは決してなく、この世のありとあらゆるプロと呼ばれる方々に、自戒してほしいと願っています。

 もちろん、この文章を書いている私自身も高みに立ってアウトサイダー批評をするつもりはなく、このことをよくよく自覚していたいと念じてやみません。

 たとえば、将棋の教え方について言うと、たしかに将棋の技術的なものに関しては、強ければ強いほど優れているという仮説を立てることができると思います。しかし、「名選手は名コーチにあらず」という格言があるとおり、棋士としての実力と、教師としての実力が等価である保証はありません。

 というのは、教える場合には上手であるだけでなく、下手でもなければならないから。下手な人、できない人、弱い人の気持ちや悩みを具体的に理解できる人でなければ、教えることはできないのです。

 ある生徒が、赴任したばかりの天才である博士に質問へ行ったときのこと。自分自身がいかにその教科が苦手であるかを語り、どうにかして克服したいとの希望を打ち明けたとき、その博士は言いました。「私はその教科が苦手だったことがないから、あなたの気持ちも、克服する方法も分からない」と。

 この博士は、立派だと思います。「分からない」ことを「分からない」と素直に告白できるのですから。

 しかし、このエピソードから、名選手が必ずしも名コーチではないということがよくわかると思います。もちろん、名選手で名コーチになる例もないわけではありませんが、私の見聞の範囲では、病気や怪我などで挫折したり苦労したりしたことのある人のほうが、コーチとしてはふさわしいように感ぜられることが多い気がしています。

 さて、どうして名選手だけだと十分ではないのかを、もう少し具体的にお話してみましょう。たとえば、私の開発した「高速棋譜並べ」がどうして効果的なのかを説明するとき、おそらくプロ棋士の方は十全に説明することができないと推測されます。なぜなら、彼ら彼女らは、それが将棋の盤上でどう役に立つかは説明できるのですが、盤外でどう有益であるかについて饒舌になることができないからです。

 「高速棋譜並べ」が将棋を抜きに有用である理由は、「集中力が高まるから」というのが模範解答なのですが、これがサッと出てくるかどうかがコーチのプロであるかどうかの分かれ道。

 プロ棋士奨励会を卒業し、プロとして生活します。ですから、将棋以外の世界で将棋がどう役に立つのかなどということは考えることがありません。弟子をとって、その弟子がプロになれないという経験をした師匠であれば、そうではないかもしれませんが、弟子をとったことのない者は、永遠に教えることのプロとは言えないのではないでしょうか。

 プロになれなかった者、プロになれなかった場合を想定する者にとって、知りたいことは将棋が強くなる方法だけではなく、そこでの経験を一般社会で役立てるためには、どうアレンジしていけばよいのかということなのですが、そのニーズが満たされることは少ない。

 プロになれなければ、一からやりなおし。将棋以外では、スポーツや音楽などの世界にも当てはまりますが、ある種の翻訳というか変換が必要なのに、その互換性を手に入れるのにひどく苦労するという展開になりがち。

 礼儀がなっているであるとか、シミュレートを論理的にできるとか、それこそ集中力が高いとか、そういう能力を言語化し、抽象化できる人がコーチとして秀でていると言えるでしょう。反対に、将棋ができない人の、将棋以外での長所を、将棋の長所へとコンバートできる人も、コーチとして向いているでしょうね。

 ただし、将棋の場合は、コーチなどいないのが通例です。全部、自分でやらなければなりません。外界での知識・知恵・知性を、盤上にどう持ち込むかということを、一人びとりが考えて、独自に磨いていくよりないため、このようなことを述べているわけです。

 ここで言っていることの意味がわからないという人は、何かが偏っている可能性があります。ちなみに、「偏って何が悪い」と開き直っている人も、典型的な「偏っている人」です。

 なるほど、「偏っている人」は、何かには秀でているのかもしれませんが、何かには大きな欠損があるので、全体としてムラができてしまい、凸凹しすぎて、安定して結果を残せなかったり、別の世界で落ちこぼれてしまったりということになるので、戒めているわけですが、このくらいの戒めで分かってくれる人、気づいてくれる人は、そもそも「偏っている人」ではないので、難しいところです。

 医者でも、カウンセラーでも、教師でも、コーチでもない、新たな職種が必要な気がしますが、それを自分自身で自助できれば最高に幸運だし、幸福なのだろうと思量します。